2015年04月21日

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

       その35


野球観戦の仙台行きから生まれた


山本宮城県知事との単独インタビューの見事な仕掛け


中日ドラゴンズの本田総務とは大変親しく、毎年キャンプにはタンカンを差し入れしていた関係もあり、ある時、中日ドラゴンズの名古屋球場への招待を受けたが、当時はドーム球場ではなかったこともあり、雨天となり、野球の試合が中止になったため、つぎは仙台球場で試合があるから時間があれば中日が招待するということで、中日ドラゴンズの一員として仙台のワシントンホテルで宿泊したのであった。


野球試合の当日になって、山本壮一郎宮城県知事とのインタビューは正に劇的な展開の中で実現したのであった。


中日ドラゴンズの招待を受けて仙台入りした5月20日、20年来のつきあいのある林嘩仙台通産局長と通産省出身で、軽金属押出開発の常務である佐藤武男さんが仙台に里帰りしてきたこともあって、3人で仙台のネオン街を飲み歩いたりした。


本来なら、林仙台通産局長を通じて、山本知事にアポイントを取るべきところを、わざわざ沖縄国際大学の宮城辰男教授を通じて、東京女子大の伊藤善市先生から山本知事へのインタビューの申し込みをするという手のこんだ方法を選択したのであった。


これは、伊藤先生が山形のご出身で、東北の振興開発等について、長年各種審議会の会長や、委員などの要職につかれ、山本知事から絶大なる信用を受けておられるということを承知していたからである。


山本知事が翌日訪韓される前日の5月24日で、ハードなスケジュールの中から10分間の時間をさいてくれるということであったのが、ついに50分、インタビューの時間にあてて頂いた。


これも中日の招待で、仙台に野球の観戦に来た筆者が突然、知事へのインタビューを思いつき実行する記者魂は生涯持ち続けることになるであろう。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

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2015年04月20日

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

    その34



それから、総理府参事官を歴任された久手堅憲次氏が当時沖縄銀行頭取であったことから、嘉陽氏と筆者が沖縄銀行に久手堅頭取を訪問し、山野先生の叙勲の祝賀パーティの開催を要請し、その場で祝賀パーティを開催する方向で準備をすすめることになった。


これまで、その種の祝賀パーティの経済団体の窓口になっていたのは、那覇商工会議所であったが、その当時は、國場幸太郎会頭が入退院を繰りかえしていた時期でもあったことから結局、呉屋秀信氏が会長の職にあった、沖縄経営者協会が窓口となって、昭和63年の11月か12月と記憶するが、会場も自治会館という山野先生の意向を完全に無視して、ハーバービューホテルという方向で話がすすめられることになったのである。


このように、会場もこじんまりとしたところという山野先生の意向とは、まったく逆の方向で話がすすめられ、沖縄で最も有名なハーバービューホテルに変更ということで調整がなされた。


場所の変更となれば、ご本人に事前に了解を取りつける必要を感じた筆者は、山野先生にお逢いし、先生の意向を十分反映することが出来ず誠に申し訳ありませんが、ここは1つ沖縄経済界の先生に対する感謝の気持ちだと受け入れて頂きたいということで結局、ハーバービューホテルでの祝賀パーティを了解して頂いたのである。


そこでも、独断専行した山野先生の叙勲の祝賀パーティは、場所も決まりチケットも準備していたが、その直後に昭和天皇の病状の悪化が伝えられ、公的な機関における行事については、自粛するようにとの政府通達などがあって、結局山野先生の祝賀パーティは中止せざるを得なくなったのである。


この山野先生の祝賀パーティは、筆者が当初独断で企画したものだけに、その実現を見ることが出来なかったことについて、今でも心残りとなっているのである。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

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2015年04月17日

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

       その32


ある時、吉田嗣延先生が東京女子医大に入院していたことから、これから見舞いに行くことを山野先生に告げると、私も久しく見舞いに行っていないとのことからご一緒することになった。


吉田先生はすでに植物人間状態で、まったく意識がない骨と皮ばかり痩せこけた姿を見るに忍びない思いで胸がつまった。


その帰りの車の中で、山野先生はぽつりと実は仲里さんね、この度、叙勲を受けろと通達があったが、断ってやったという話しをされたので、筆者は山野先生に叙勲というのは、これまで社会に貢献された方々に対して、天皇陛下から賜わるご褒美なんですから、自然体でお受け頂いた方がよろしいかと存じますが、とガラになく云ってしまったのであった。


山野先生は、そのことがずっと気にしておられたようで、翌年の昭和63年に、勲2等の叙勲の内示があった段階で、筆者に電話があった。まだ内示の段階であるので外部には漏らさないようにということであった。


外部に漏らさないということは、山野先生に取っては、それなりの理由があったのである。


実は鳥根県の知事選挙に立候補した山野先生は、NHKの速報で、山野候補当確のニュースが流れたが、開票結果は、相手候補に敗れるということがあったこともあり、慎重にならざるを得なかったかも知れない。


ところが、筆者は翌日、沖縄総合事務局に行き、局長をはじめ幹部の皆さんに、山野先生の叙勲についての大本営発表をしたのであった。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

posted by 春夏秋冬 at 07:52| Comment(0) | 仲里グランドデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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