2015年04月24日

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

    その38


ある時は沖縄は東京だけに目を向けているが、これでは、いつになっても沖縄は東京のしっぽにしかならない。この辺で発想を変えて、東アジアの玄関口として、沖縄の発展を考えるべきだという話しをすると、仲里さんなかなかすばらしい発想だねと、まるではじめて聞いたように、相手を持ち上げる絶妙な言い回しには脱帽したのである。


話し相手の発想を活かしてやろうという心配りは、単に経験から得られるものではなく、純粋な心から発する、その人の研ぎ澄まされた感性によるものであろう。


吉田先生からは仲里さんね、病気をするにしても土、日は、病院は休みだから、その日は避けるようにと冗談めいたお話をされたことがあったが、たしか吉田先生が入院した日は、土曜日で病院をたらいまわしされたということを記憶しており、人先にものを言うなという沖縄の言い伝えをかみしめたりしているところである。


吉田先生は、かつて沖縄県知事候補として人選がすすめられ、ご本人も意欲的なところもあったが、地元では沖縄で殆んど生活していない東京在住の人間を沖縄県知事にすることに反対意見も根強く、結局それは実現することはなかったのである。


この県知事選について吉田先生に直接聞いたこともあったが、先生としては地元の意向を十分尊重して自分の態度を最終的に決定したいという気持ちが強かったような気がする。


しかし、仮に吉田先生が知事選に出馬して、当選したとしても、基地問題や経済問題など山積する諸課題解決のためのブレーンをどう養成するかなど東京生活の長い先生としては、相当苦労することになっただろうと想像することを思えば、むしろ結果的によかったことであっとといえる。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

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2015年04月23日

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

       その37


昭和30年代の半ばごろから知名士の参加を求め「沖縄問題を語る会」などをつくって世論の喚起に取り組むようになってから、誰言うことなく「沖縄の三人男」が話題になったと末次一郎先生の著書「温故創新」に記述されている。


一連の態勢づくりに、役所側で協力した当時総理府特別地域連絡局長の山野幸吉氏、政治家や学者の協力を固める役割が末次一郎氏、そして、これらを束ねながら、ご自分はもっぱら沖縄現地の態勢づくりが吉田嗣延先生で、この3人を「沖縄三人男」と呼ばれていたということを筆者ははじめて知った。


吉田先生とは月刊「自治新報」を発行した昭和58年以降、何度も沖縄協会で先生にお逢いしているが、本格的な交流がはじまったのは、昭和60年に沖縄協会に置いて月刊 「自治新報」主催により、座談会に吉田嗣延先生、加藤泰守元沖縄開発事務次官、藤仲貞一沖縄開発事務次官、小林悦夫沖縄開発庁振興局長をまじえた座談会からである。


ちょうど、沖縄協会での座談会がおわったその日の夕方は、ホテルニューオータニで、稲嶺一郎先生の出版祝賀パーティがあったため、吉田先生の車に同乗させて頂いたりした。


沖縄に来られるときは、よく自治会館に宿泊していたことから、この自治会館で朝食をご一緒させて頂いたりした。


ある朝いつもの流儀で、ビール一杯どうかとすすめられたが、筆者が今日は休肝日になっておりますと、お断りすると、吉田先生はすかさず、いやなかなかいいことを云いますねといかにも感心した様子である。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

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2015年04月22日

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

       その36


戦後の復興から生涯一貫して


国と沖縄のパイプ役に徹した吉田嗣延先生


吉田嗣延先生と運輸大臣や防衛庁長官などを歴任した細田吉蔵先生は旧制松江高校の同級生で、ともに東大を卒業されているが、旧制松江高校時代の昭和6年、ストライキを起こし、細田氏が代表となって長期停学処分を受けた。


それを不当または過酷として全生徒を代表して頑張ってくれたのが吉田嗣延先生であり、細田先生は私の大切な恩人だと吉田嗣延先生の回想録に寄稿している。


吉田嗣延先生は昭和10年東大を卒業、戦後、沖縄県東京事務所長、外務事務官、総理府南方連絡事務局第2課長を経て、南方同胞援護会専務理事、沖縄協会専務理事、沖縄平和公園建設協会専務理事などを歴任された。


筆者が吉田嗣延先生と親しく交流したのは、昭和58年頃からでわずか数年の交流であったが、いろいろとご指導を頂いた。


吉田先生は戦後、沖縄県東京事務所長をやっておられたが、GHQ指令で、沖縄県が廃止されたため、外務省に新設された沖縄班の班長となり、沖縄県民の戦後処理に当たられたが、昭和28年講和条約の発効により、沖縄問題を総理府に移管、新設の南方連絡事務局の第2課長となり、沖縄に関する各種の援護業務に全力を注がれた。


末次一郎先生とともに、講和条約によって、祖国から切り離された、沖縄教職員会長の屋良朝苗氏からの要請に基づき、沖縄の小・中・高への日の丸寄贈にも積極的に参加し、また大濱信泉早大総長や、末次一郎先生と吉田嗣延先生が沖縄の祖国復帰の早期実現に向けて、訪米するなど沖縄の祖国復帰に情熱を燃焼しっづけたのである。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

posted by 春夏秋冬 at 07:47| Comment(0) | 仲里グランドデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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