2011年12月08日

国際航空機メンテナンス基地の実現を目指して 座談会その5

国際航空機メンテナンス基地の実現を目指して 座談会その5

―― 宮城先生には、わが国の戦後の経済発展の歴史について解説をして頂き、また4
全総において沖墟県がどのような整備方針をもとに施策が展開されてきたかについて話題を展開していただきましたが、そこで復帰以降の県経済の歩みについて感想をまじえお話を頂きたいと思います。

 宮城氏 復帰に伴い制定されました沖縄振興開発特別措置法に基づき、三次にわたって施策の展開が行われてきた結果、復帰から26年間に沖縄振興開発事業費は5兆円に達し、各面にわたる社会資本の整備が一段と進展を見ました。

復帰時の昭和47年に策定された第1次沖縄振興開発計画の中では、基地の整理縮小に伴う軍労務者の雇用の場を創出するため、雇用効果の大きい第2次産業を柱としたいわゆる工業立県としての目標を掲げたのでありますが、先程話のありましたようなCTS以外の企業の誘致は不成功となり、とりわけ第2次産業のうち、製造業の全産業に占める割合は復帰時の10パーセント台から6パーセント台に低下している状況にあり、それが失業者を多くしている要因にもなっております。

このように沖縄県の産業政策は、少なくとも成功したとはいえないわけで、それらの反省を踏まえ、21世紀に向けてどのような方向を目指すべきがしっかりとしたコンセプトのもとに、沖縄のグランドデザインを打ち出していくべきだと考えております。

復帰以降、沖縄県の経済発展を支える産業として、観光産業があります。これからも本県の戦曙産業として推進する必要があります。観光は、昭和46年のパスポート時代では、20万4,000名でありましたのが、平成10年度には、410万人の目標がほぼ達成する見込であり、引き続き観光産業は沖縄県の自立発展のための重要な産業として位置づけて推進する必要があると思います。

また、人口も復帰時の95万人から130万人へと増加率は全国トップクラスの水準にあり、この人的資源を活用して国際化時代、情報化時代、高齢化時代に対応した人材育成に力を注いでいくことが求められているところであります。

資本の自由化や金融の自由化が進展するなかで、ますますグローパルな視点で沖縄の21世紀をデザインする必要があります。

新しい全総では、「東アジア一日圏」構想とか、またわが国のどこからでも、アジアゲートに一時間で到達できる「対アジアゲート一時間圏」構想なども打ち出されています。これからは沖縄の地理的条件を生かしたところの東南アジアのゲートウェイとして位置つけた方向をめざした施策の展開が求められているわけです。

このような意味でも太田会頭が提唱している国際航空機メンテナンス基地建設構想は、沖縄県の自立発展を図る上で、極めて興味深いプロジェクトであると思っているところであります。

復帰以降、沖縄県の開発は、西海岸地域を重点的に開発整備されてきた経緯があります。昭和50年に開催されました沖縄国際海洋博覧会開催に向けて、国道58号の拡幅整備が行なわれ、同時に恩納村一帯を中心とするリゾートホテル等の立地、北谷町における軍用地返還後の跡利用としての商業集積や公有水面埋立事業による地域の活性化がすすめられ、宜野湾地先の埋立等により沖縄コンベンションセンターの建設をはじめとするコンベンションシティの形成、浦添地先の流通団地をはじめとする那覇港湾の整備等、復帰以降から国、県の施策の目が西海岸に向けられたきらいがあります。

一方、東海岸一帯の開発が西海岸側に比べ、大幅に立ち遅れておりましたが、昭和50年代後半から流通加工基地として中城湾港新港地区の建設がすすめられ、総事業費約2,000億円を投じて393ヘクタールの埋立事業がすすめられ、県事業として、平成12年度までに完成する予定であります。

さらに、沖縄市が計画している東部海浜開発も国直轄事業によって近く着工の運びであり、東部地域においては与那原、西原、佐敷、知念の四町村にまたがるマリン・タウン・プロジェクトにおいても与那原、西原地区の事業は順調に進展をみております。

また、金武湾開発についても平成12年度の港湾改訂に向けて具志川市、石川市、金武町、与那城町、勝連町で公有水面埋立による開発計画があり、この5市町の事業費のトータルは、約3,000億円にのぼるビックプロジェクトであり、それらの東海岸開発のなかでも太田会頭が提唱している国際航空機メンテナンス基地建設と食糧備蓄基地としての港湾および石油コンビナートの事業計画は、21世紀の沖縄経済を展望する際、大きな可能性を秘めていると思います。

わが国は、新たな1千年期を迎えようとしている今日、新全総は明治期の回づくりにも匹敵する大きな意義と役割を持っているという認識に立って、21紀の国土のグランドデザインをかかげておりますが、それは地域の自立の促進と美しい国士の創造を目指すことになっております。

この新しい全国総合開発計画の中で、沖縄は太平洋・平和の交流拠点(パシフィック・クロスロード)と位置づけられております。

沖縄地域は、わが国と東南アジア地域等の熱帯・亜熱帯圏との結節点に位置し、広大な海域に囲まれたわが国唯一の亜熱帯海洋性気候の島しょ地域という独特の自然的・地理的環境の下で、古来からの東アジアや東南アジア諸地域との交易を通じて形成された琉球文化に、戦後のアメリカからの影響等が加わった、国際色豊かな独自の文化、生活様式を育んできたと謳われております。

今後、沖縄地域は、そうした地理的、自然的特性と歴史的、文化的蓄積等の地域資源や、それによって培われてきた多様性を受け入れる国際感覚と相互扶助の精神を積極的に生がし、地域の自立的発展とわが国ひいてはアジア・太平洋地域の経済社会文化の発展に寄与する21世紀のフロンティア、「太平洋・平和の交流拠点(パシフィック・クロスロード)」として特色ある地域の形成を目指すとしております。

このため、アジア・太平洋地域における結節機能を育成、強化し、平和交流や技術協力等の国際的な貢献活動を始め、経済、学術、文化等における多角的な交流を促進して、世界に貢献する広域国際交流圏の形成を図ります。また、経済の自立と雇用の確保を進め、地域社会と共生し国際平和に貢献する自立的な地域を構築するとなっております。このことによって、海洋性の太平洋新国土軸形成の端緒が関かれるとされております。

2011年12月07日

国際航空機メンテナンス基地の実現を目指して 座談会その4

国際航空機メンテナンス基地の実現を目指して 座談会その4

 ―― 宮城先生は、沖縄の地域経済問題については権威者として評価され、著書にも「地域活性化への戦略」や「沖縄・自立への設計」と多数の著書を発行されておりますが、復帰以降の沖縄経済の歩みについて触れる前に、戦後のわが国の経済成長の歩み等について、まず触れて頂きたいと思います。

 宮城氏 わが国の戦後経済発展の端緒となったのは、昭和25年朝鮮動乱の勃発により、朝鮮特需によって、戦後復興のきっかけをつくったといわれております。

沖縄県においても朝鮮動乱を契機として、鉄、非鉄のスクラップが異常に高騰し、最大の輸出産業として県経済に大きな影響を及ぼしたという歴史があります。

わが国の本格的な経済の発展は、池田勇人総理が打ち出した所得倍増計画にはじまります。

わが国の全国総合計画は、昭和37年日本が高度成長期時代に策定されました。

この契機になりましたのが、これに先立つ昭和35年に策定された国民所得倍増計画であります。国民所得倍増計画は、10年後に国民所得を二倍増にしようとするものであり、その主要な手段として工業開発を掲げ、太平洋ベルト地帯への効率的投資をめざしました。しかし、この計画が実行されると太平洋ベルト地帯地域とそれ以外の地域とでいわゆる地域間の格差が拡がるのではないかという危惧が議論され、これらを踏まえた国土総合開発の考えを明らかにする全総計画の策定が待望されたのであります。

この一全総は、地域間格差を是正し均衡ある発展を図るため、拠点開発方式をその整備手法と致しました。すなわち全国に工業開発拠点を設け、そこからの波及効果による地域の振興によって格差是正を目指すものでありました。具体的には、新産業都市や工業整備特別地域の整備という形で実施に移されていったのであります。

その後、日本経済は、史上まれな高度成長をつづけ、ニケタ成長がみられるほどになりました。このような高度成長の過程において過密・過疎問題の拡大等地域構造が大きく変動したため、一全総では十分な対応ができなくなるのであります。

そこで、昭和44年に新全国総合開発計画(新全総)が策定されました。これは、技術革新の進展、情報化社会の形成や全国的な都市化の進行に対応し、長期的、持続的、飛躍的に国士の発展に活力を与えるため、交通通信ネットワークの整備や大規模工業基地の建設などを目指した大規模開発プロジェクトを計画の戦略としました。苫小牧東部地区やむつ小川原などの大規模工業地区を全国に配し、首都東京をはじめ日本列島の南北2,000キロメートルにわたって札幌から福岡までの7大集積地を結ぶ主軸を形成するとして、整備新幹線などの交通ネットワークのグランドデザインを描いたものでした。

高度成長を前提とし、国土の効率的利用を図り、過密過疎問題を解決していこうとした新全総は、国民に大きな夢と希望を与えたものでありました。しかし、昭和48年の石油ショック、公害問題の顕在化などにより、大きな転換を迫られることとなりました。

次なる新しい時代は、資源有限を強く認識した時代であり、安定成長の時代となりました。このような時代に即応して、昭和52年に第3次全国総合開発計画(三全総)が策定されるに至りました。三全総は、人間居住の総合的環境の整備を目指した定住構想を打ち出しました。モデル定住圏計画の指定などに代表されるように、新しい生活圏として定住圏整備を強力に推し進め、「地方の時代」をリードしてきたといえます。

三全総策定後の初めての国勢調査である昭和55年調査においては、昭和50年と比較して人口が減少した都道府県は、唯一東京都のみという象徴的な結果となりました。まさに地方定住は進展していくかにみえました。

世界の経済活動の一割を占めるまでに成長したわが国を取りまく本格的な国際化の波が国土にも大きな影響を与えることになりました。とくに昭和50年代半ばの金融の自由化、外為法改正などを1つの契機に、わが国の国際金融機能が増大致しました。なかでも東京が世界の金融機能を果たすようになり、東京の世界都市化が生じました。このようなことも要因となり、人口や諸機能の東京一極集中という国土構造が生じました。三全総までの「大都市対地方」という構園から「東京対その他」という新たな局面を迎えました。

四全総では、多極分散型国土を形成するための基本的な戦略として交流ネットウーウ構想を打ち出しております。

その意義については、第1は地域の自立の観点であります。地域間相互の活発な交流はその地域を含む一定の圏域内の経済循環を高めるとともに交流による地域間の市場や資源を共有することによって、経済活動範囲を拡大・活発化する可能性を持ちます。

第2は独自性ということであります。地域間の活発な交流は、独自性・主体性の希薄な地域をより大きな集積へ吸収・併呑する側面を有しております。反面、交流による他との接触を通じ、地域が意を用いなかった地域の持つ他に誇れる良さ、独自性が再認識される可能性があります。このことが地域のアイデンティティをかん養し、ひいては主体的で個性的な地域つくりのインセンティブともなります。

第3は社会全体の活性化、創造力のかん養の観点からであります。

 ―― 宮城先生には、四全総における沖縄の整備方針はどうであったかについてもお話を頂きたいと思います。

 宮城氏 沖縄地方は、亜熱帯地域に位置し、広大な海域、多彩な自然・景観に恵まれ、特色ある活力に富んだ地域として発展することが期待されています。

しかし、沖縄は長くわが国の施政権外にあり、地理的、自然的制約条件も大きく、厳しい雇用環境、高い財政依存率、公共、民間の各分野における低い資本蓄積、広大な米軍施設・区域等の存在による厳しい土地利用上の制約など、解決すべき多くの課題を抱えています。

今後は、わが国の南西端に位置するという地理的特性を生かした東南アジアをはじめとする諸外国との交流拠点の形成、豊かな亜熱帯・海洋性自然と特有の伝統文化と歴史的蓄積を活用した国際的規模の観光・保養地域の形成等により地域の特性を充分に活用した産業・文化を振興し、特色ある地域として自立的発展を図る、ということになっています。

2011年12月06日

国際航空機メンテナンス基地の実現を目指して 座談会その3

国際航空機メンテナンス基地の実現を目指して 座談会その3

 ―― 西田先生は、与那城町におけるCTS誘致については深いががわりをもっておられたようでありますので、その辺のお話を伺いすると同時に、復帰以降からのわが県経済の歩みをふり返りながら現状と課題についても伺いするとともに、国際航空機メンテナンス基地建設が自立経済の発展を図る上において、どのような役割を果たすがについてお話を頂きたいと思います。

西田氏 私も伊是名という離島で育ったものとして、平安座・宮城・伊計の離島苦の皆さん方にも島チャビの解消を図るここが政治にかかわる者としての使命であると言う認識をもとに、与那城町のCTS誘致促進のために一生懸命に取り組んで参りました。

私は、島チヤビを解消し、離島の方々にも豊かさを公平にわかちあえるようにするためには、将来政治家になってすべての県民に公平さを与えることの出来るようなことを描いて来たものとして、与那城町の3離島の離島苦を解消するためには、企業を誘致して道路をつくり、または橋を架けることによって離島苦を解消しようということで、CTS誘致については一生懸命地域の皆さんと寝食を忘れ懸命に取り組んで来ました。

先程太田会頭からもお話がありましたように、地元においては、CTS誘致について当時の村を二分するような抗争が展開されましたが、自民党県連においてもCTSの誘致を決定しておりましたので、私は自民党青年部長としての立場から3年間平安座島に泊まり込みでCTS誘致の推進に当たってきました。

CTS誘致については、歴史に残る闘争でありましたが、それらの企業の誘致により平安座・屋慶名聞の海中道路がガルフ社によって整備され、現在では県道として海中道路の拡張がすすめられ近く完成の予定であるほか、平安座・宮城間においても、約64万坪を三菱開発によって埋立され陸続きとなりましたし、伊計大橋の開通や浜比嘉大橋も供用開始となり、離島苦解消が図られておりますことについて、それらの推進に深いかかわりをもってきた者として感慨深いものがあります。

それから復帰以降から今日までの沖縄県の歩みについても私の感想をまじえて申し上げることに致します。

昭和44年、佐藤ニクソン会談において、沖縄の返還が合意され、昭和47年5月15日、県民の長年の悲願
でありました祖国復帰が実現致しました。敗戦から27年間の米軍支配体制下においては、殆ど社会資本の整備が行われず、本格的な社会資本の整備は復帰以降からであります。

このようなことがら、沖縄の立ち遅れた社会資本の整備を推進するため、沖縄振興開発特別措置法が10年間の時限立法として制定をされたのであります。同法のねらいは本土との格差を是正し、自立発展の基礎条件を整備する目的でありましたが、その後、沖振法は昭和57年度および平成4年度にそれぞれ延長され、現在は、同法に基づき平成13年度を目標年次とした第3次沖縄振興開発計画に基づき、各面にわたる施策の展開が行われていることはご承知の通りであります。

昭和47年度がら平成10までの沖縄振興開発事業費は、5兆円強に達し、道路、港湾、空港、漁港、上下水道、公園、水資源開発のためのダム建設、電源開発、福祉・医療、農業基盤整備、学校教育施設整備等の充実強化が図られ、見違えるようになっておりますことは、ご承知の通りであります。

また、県民所得も昭和47年の復帰時点では、一人当たり44万5,000円でありましたのが、平成7度には、214万9,000円と4倍以上に増えているなど回の施策は高く評価されるものであります。

しかしながら、復帰時の昭和47年における県民所得の水準は約60パーセントであったのが、平成7度では71パーセントの水準に達したものの、依然として47都道府県において最下位の水準であることから、沖振法の目指す本土との格差を是正し、自立発展の基礎条件を整備するためには、引き続き国の財政的な支援をお願い申し上げなければなりません。

ご承知のように、わが国経済はバブル経済崩壊以降、戦後かつてない大不況に見舞われ、北海道拓殖銀行などの金融機関の倒産をはじめ、一流企業が相次いで倒産するなど厳しい状況にあり、政府は不良債権処理のための対策や緊急経済対策として、平成11年度に24兆円の予算を計上するなど不況対策に懸命なる努力をつとめているところでありますが、一方、沖縄県においても9.2パーセントという全国の二倍の失業者をかかえ、県経済はかつてない厳しい状況にあります。

とくに、平成10年2月、大田知事が普天間飛行場のキャンプ・シュワーブへの移設について反対表明を行ったことがら、その後、国と県との膠着状態が続き、沖縄政策協議会で打ち出している沖縄振興開発事業としての61プロジェクトが凍結したことなどから、去った11月の県知事選においては、経済振興を柱にかかげた稲嶺氏が大差をもって知事の座を仕留めたのであります。

稲嶺新知事は、12月10日の就任式の翌11日には、沖縄政策協議会に出席のため上京し、具体的な経済振興策について要請するなど、経済再生に向けた取り組みを積極的にすすめており、大きく流れは好転するものと期待しているところであります。

沖縄県が自立発展を図るためには、ぜい弱な財政状況のもとで、県単事業で地域経済の発展を図ることは困難なことでありますので、引きづつき国の支援が必要であります。現在の沖縄の経済を支えているのは3Kだといわれております。

1つは、公共事業であり、2つ目は基地経済であり、3つ目は観光であります。その3Kについて具体的に触れることは時間の制約上できませんが、いずれに致しましても沖縄経済の自立を図るためには、太田会頭が提唱している国際航空機メンテナンス基地の早期実現を図ることであり、そのことによって中部圏域の活性化のみならず、沖縄県の自立発展の起爆剤になるものと確信しているところであります。

同基地建設構想については、太田会頭より資料を頂き、勉強させて頂きました。地域経済界からも私に同構想の実現に協力してくれという要請も受けておりましたが、いろいろと研究していく中で、この事業は是非とも実現させ、21世紀の明るい沖縄県づくりの柱にしたいという熱い思いを持っているとこうでありま
す。

太田会頭よりも説明がありましたように、国際化が進展する中で、年々航空機利用客は増加し、西暦2010年には2万機が必要といわれておりますが、航空機は量産が出来ないことなどもあって、西暦2010年には、8,000機も不足する予想であります。このようなことから、航空機利用客の二−ズに応えるためには、航空機の耐用年数をメンテナンス基地等の建設により大幅に延ばすなどの対策も必要であります。そのためには低コストで埋め立てが可能な与勝地先の公有水面を埋め立てることが国際競争の見地からも有利であると言う認識を持っているところであります。

この国際航空機メンテナンス基地の建設を中核とした総合的な地域開発の中には、食糧備蓄基地や石油コンビナートなどの立地も推進するという構想であります。この埋立は現在暗礁に乗り上げている普天間飛行場の移設を受け入れることを条件としており、政府がこの構想を受け入れ防衛庁等の予算で埋め立て造成をすることになれば、稲嶺新知事が政策に掲げている北部地区での軍民共用の飛行場建設は新たな火種を未然に消すことにもつながると判断するものであります。

食糧備蓄基地などを目的としたアジアポート構想が運輸省によって打ち出されたことがあります。

アジアポート構想について、もう少し具体的に申し上げますと昭和50年初頭にブラジル大統領がわが国政府にブラジル経済の再建のため、ブラジルの豊富な一次産品を開発して欲しいとの要望があり、それに華づき運輸省では、昭和54年にアジアポート構想を策定しております。

このアジアポート構想の中では、鉄鉱石や石炭の鉱産物、大豆や小麦、とうもろこしの農産物を開発し、それらの一次産品を25万トンから30万トンの大型タンカーで運び、その中継基地として南西諸島が上げられておりました。

アジアポートから東南アジア各国に対して4、5万トンの船で輸出するという構想でありましたが、この構想は日の目を見ずに終わっております。しかし、その当時に比べ、韓国や台湾の工業化がすすみ、農産物の輸出国から輸入国に変わるなど、食糧の備蓄基地に対するニーズは高まっているのが実情であります。

このアジアポート構想の実現を図るためには、大量輸送革命時代に対応できるハブ港の建設が低コストで可能かどうかがカギとなっており、そのような意味では中城湾や金武湾はその可能性を十分備えていると思っているところであります。

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