沖縄県の政治・経済・社会・芸能・文化等各界の著名な人物や地名の由来、建造物、制度上の名称等について、沖縄タイムス社発行の「沖縄大百科事典」より令和3年1月16日から連載で紹介。
そ の 71
伊波普献 (いは ふゆう) 1876.3.15〜1947.7.9.(明治9〜昭和22)言語・文学・歴史・民俗などを総合した沖縄研究の創始者、啓蒙的社会思想家。那覇西村の士族の家に父普済、母マツルの長男として生まれる。実弟に伊波月域(普成)がいる。
【生涯】 その生涯は、近代沖縄の激動期に重なり、時代の要請にこたえていかに沖縄を発見し、行くべきかの学問的・実践的課題の追求に費やされた。
1891年(明治24)沖縄県尋常中学校入学。5年生のとき、児玉喜八校長の沖縄にたいする差別などに抗議して排斥運動をおこし(尋常中学ストライキ事件)、指導者の一人として95年11月退学処分となる。
このころから<侮辱された同胞>救済のために努力する決心を固める(『古琉球』序文)。後年の一連の啓蒙活動はこうした体験の延長線上にあるともいえよう。政治家を志して96年上京、明治議会尋常中学校に入学、4年間の浪人生活ののち、1900年第三高等学校(現京都大学教養部)に入学。
当時は歴史学志望であったが、在学中言語学に志望が変わり、03年東京帝国大学文学科言語学専修(現東京大学文学部)に入学。
同期に橋本逸吉、一期下に金田一京助らがいた。
またそのころ中学の恩師田島利三郎からおもろの講義をうけ、「琉球語研究資料」を譲渡される。三高時代から郷里の新聞などに投稿して注目されていたが、おもろ研究を基礎として本格的に沖縄研究に取り組む。
1906年に卒業後、帰郷。そこで直面したのは、琉球処分以来の<沖縄の歴史>湮滅(いんめつ)政策のもとで、文化的・精神的に自信喪失した同胞の姿であり、思想的状況であった。
それは伊波が一個の郷土研究家として立つことを許さず、やがて現実打開の使命感から多様な啓蒙活動にのりだすことになる。
伊波は、郷土資料の発掘・収集、著述活動と並行して、歴史・言語・宗教と多岐にわたる講演活動を展開する。沖縄の伝統文化は劣性とされた当時の社会情勢のなかでは、画期的なことで、そこに時代の転換期を担う伊波の革新思想家としての役割があったといえよう。『古琉球』で展開される<日琉同祖論〉も、このような社会的背景のなかから、<沖縄人>の人間としての尊厳を回復する根拠として提示きれた<抗議の学>という性格をもつものであった。
活動は沖縄図書館設立運動などにひろがり、沖縄人自らによる沖縄の文化的個性の再発見をめざすものとなる。
大正期こ入るとさらに沖縄組合教会、子供の会、沖縄各地に講演行脚した民族衛生運動へとひろがって、民衆の政治的自覚をよぴかけ、民衆政治論を展開した。
『古琉球の政治』『孤島苦の琉球史』『琉球の五偉人』などは、この時代の民本主義者としての伊波の思想を如実に示している。
1925年(大正14)こうした活動に終止符を打って上京。
以後、在野の学者として沖縄研究に専念する。
この<街頭から書斎へ>の転換の背景には、大正末期から顕著になった経済的窮乏(ソテツ地獄>という現実の前に、自らをかけた啓蒙運動が有効ではなかったという挫折(ざせつ)感があったといえよう。
東京での伊波は、柳田国男・折口信夫(しのぶ)・河上肇(はじめ)らと交流をもち、『をなり神の島』『日本文化の南漸』など一連の民俗学的論稿をはじめ、『校訂おもろそうし』『沖縄考』『南島方言史』次々と結実させる。
45年(昭和20)、周囲から推されて沖縄連盟の代表総務委員となる。
47年8月、脳溢血のため仮寓(かごう)の比嘉春潮宅で波乱の生涯を閉じた。
最後の著『沖縄歴史物語』には廃墟(はいきょ)の沖縄、講和を控えた沖縄の未来を憂う心情が述べられている。
73年、伊波の学問的業績をたたえ、沖縄研究を振興する目的で伊波普猷賞(沖縄タイムス社主催)が設けられている。
元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦
沖縄県浦添市屋冨祖2丁目1番9号
TEL098−876−8896 FAX098−876−8473