2020年10月19日

歴代総理のプロフィール


歴代総理のプロフィール



人生の羅針盤:沖縄の小・中・高生に、わが国の偉人を三省堂発行の日本人名事典よりインターネットで紹介することで、人生設計の指針になるよう願いを込めて連載するものである。

第42代総理大臣


 鈴木貫太郎 (すずき かんたろう)18671948(慶応3〜昭和23)明治・大正・昭和期の海軍軍人(大将)・政治家。

関宿藩(千葉県)代官鈴木由哲の長男。鈴木孝雄の兄。

生・和泉(大阪府)の陣屋。学・海兵14期、海大。

日清戦争では水雷艇の艇長。海大卒業後、海大教官、ドイツ駐在武官などをへて日露戦争には駆逐隊司令として従軍。戦後水雷学校長、敷島・筑波各艦長から舞鶴水雷隊司令官と実戦特に水雷戦の権威として部内に地歩を築き、1913(大正2)人事局長、ついで’14大隈内閣のもとで海軍次官をつとめた。

 その後海軍兵学校長から第2・第3艦隊各司令長官、呉鎮守府司令長官を歴任。’23大将に昇進、’24連合艦隊司令長官、’25軍令部長兼海軍将官会議議員。

29(昭和4)予備役編入とともに侍従長兼枢密顧問官。在任中ロンドン軍縮条約に強硬反対を唱える加藤軍令部長らの慰撫につとめるなど忠実な天皇側近としての姿勢を示したため、かえって〈君側の奸〉とされ、’36226事件で襲撃されて重傷を負って侍従長を辞職した。’40枢密院副議長、教育審議会総裁。’44枢密院議長。

45宮中勢力からその政治的野心のなさを買われて組閣、本土決戦体制を強化して〈一億玉砕〉を呼号する一方、最後の望みをソ連仲介和平に托して秘かに画策。原爆投下・ソ連参戦の急迫した事態の中で〈国体護持〉のためのポツダム宣言受諾の途を切りひらくこととなった。

終戦詔勅放送直後、総辞職。のち’46まで再び枢密院議長、また王公族審議会総裁。



郷土の偉人を人生の羅針盤に:郷土沖縄に学び、人生設計の羅針盤としての役割を果たすべく三省堂発行の日本人名事典に収録された沖縄県出身の偉人を連日紹介することにする。(50音順)


そ の 29


蔡温 〈さいおん〉 江戸中期琉球王府の三司官〈大臣〉。蔡鐸の次男、母は葉氏。生・っ琉球〈沖縄〉那覇久米村。

名・具志頭親方文若(ぐぢちゃんおえかたぶんじゃく)号を膚言、蔡温は唐名。

王府の要職は首屋士族や国王近親者によってほとんど占められていたので、久米村出身の三司官は異例。

1708(宝永5)進貢存留役をかねて中国に留学、隠者に奇遇して経世済民の実学を学ぶ。帰郷後、尚敬王の国師となり、’28(享保13)三司官に任ぜられ、47歳から71歳までその地位にあった。在任中、実学を生かして林政や農政を合理化し、商工業をおこして、王府の財政確立と失業士族の救済に活路を開いた。

そのため何象賢(羽地朝秀)とならび沖縄近世政治家の二大英傑と評価されれる。しかしその政策の基本は王府再興にあったため、農政の合理化にともない農民の都市進出は禁止され、分村などの強制移民で廃村が続出、八重山ではマラリアの流行などもあって廃村の跡は80を数えた。自伝のほかに十余種の著述を残した。



               元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

                       沖縄県浦添市屋冨祖2丁目1番−9

               TEL098−8768896 FAX0988768473



posted by 春夏秋冬 at 06:31| Comment(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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