2014年04月28日

東京のさくら名所今昔 その39

東京のさくら名所今昔 その39



堤防上に初めて桜を植えたことについては諸説があるが、吉宗の時からとする文献が多い。

俳人正岡子規は別説をとっているが、明治までの植栽の経緯を次のように記している。


墨堤へ始めて桜を植付けしは4代将軍の時にあり。


徳川氏覇府を開きしより、隅田寺嶋須崎小梅4ケ村は射猟の場にてありしなり。(中略)。


厳有公(家綱の尊称)堤上の風情なきを以て桜樹を常州桜川より移し木母寺畔に植え、享保2年(1717)有徳公(吉宗の尊称)また新たに100本を須田の渡ロに植え、11年に至り、桜柳桃150本を植えまし札をたてて伐採を禁じ、名主坂田三七郎に命じて、桜御用掛とし銀4両永150文を手当として下附セリ。


これより墨堤の桜花稍盛なり。


然れども隅田より以南へは妄りに植添うるを許さざりしに、寛政以後世の中太平にして、大小名も武骨の風を失い、歌舞遊宴の風大に起り、文化に至り寺嶋村の花屋佐原菊塢浅川黙翁等鄰人と計りて、白髭神社へ奉納の口実を以て八重桜150本を白髭の南北に植えたり。


天保2年(1931)坂田三七郎200余株を寺嶋須崎小梅の3ヶ村へ植え、益盛となり四民の群衆夥しかりき。


それより嘉永7年(1854)又200株を補い三囲近辺に植えたり。


弘化3年(1846)隅田川大水、堤防を破壊し、桜樹を流損すること無数なり。


墨上の眺望殆んど尽きんとす。


此時植木師宇田川惣兵衛なるもの家産衰えたるをも屈せず、憤激して桜樹150本を長命寺畔に植えたるを以て、危急を維持し、明治7年(1874)小梅村の晋永機子其村境に若干の樹を植え、明治13年水戸家にて邸前へ植えられたるより、遂に墨堤2,100余間(約3,820余メートル)の間、桜樹連続して都人士の眼を慰むるに至りたり。


(相関芳郎著 東京都公園協会監修による東京のさくら名所今昔より)

posted by 春夏秋冬 at 07:20| Comment(0) | 東京のさくら名所今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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