
仲里嘉彦の自叙伝
〔わ が 恩 師〕
小さき胸に抱きしデッカイ夢 (その580)
私は当時、これはすばらしいアイデアだと思ったし、これを将来は東南アジア諸国をも加えた国際的な訓練基地にすれば、まさに宮古島、いな沖縄経済の起爆剤たりうるというのでひとり悦に入っていた。
しかし、これをどのように実現するかという点になると、よほど慎重にしなければならないと思った。
松岡政権の時代であれば、琉球政府・与党に表から構想を打ち明けられるけれども、屋良さんの場合は、政府・与党とも、本土政府および自由民主党との間に大きな考え方の相違があったし、また、それはまことにやむをえないことであった。
したがって、この問題も慎重にとり運ぶ必要があった。
ストレートにもちだせば、「軍事基地化するおそれがある」というので、全面的な反対をうけることが予想されたからである。
そこで内部的な打ち合わせはすすめつつも、琉球政府にこの構想をもちだすのは選挙が終わって年が明けてからにすることにした。
たまたま、3月27、28日に那覇市で第四回沖縄経済振興懇談会が開催されることになったので、本土経済界の側からこの構想をうちだしてもらえれば、より自然に、純粋に沖縄経済開発策の一つとしてうけとってもらえると思った。
いまにして思えば、このいかにも役人らしい発想が、かえって屋良さんに迷惑をかけ、この計画の実現にいっそう困難性を加えたのではないかと反省するのであるが、私たちの計画そのものの純粋さにもかかわらず、この計画の実現には数々の困難を乗りこえた関係者の献身的努力と長い年月を要したのである。
(鰍ャょうせい発行 山野幸吉著書の「沖縄返還ひとりごと」より)