
仲里嘉彦の自叙伝
〔わ が 恩 師〕
小さき胸に抱きしデッカイ夢 (その49)
それは、確か当時の一般紙の月決めの契約は1,400円であったと記憶するが、名古屋地区を中心に発行し、同地区における読売新聞の基盤体制を築く狙いもあったと思うが、その名古屋派遣メンバーとして本人が知らない間に加わることになっており、しかも、その台所を預かる重要な役割を筆者が担当することになっていたのである。
しかし、この名古屋進出に関する計画も、その重要メンバーの一人として参加することになっていた筆者自身も、知らなかったというほど、秘密裏に進められていた同計画も小堀社長に発覚することとなり、関東各地に出張で散らばっていたわれわれも、即時帰任命令が出され、成田の社長邸に集結することとなった。
小堀としては、簾の緩んだ組織を固め、再スタートを切ろうという狙いもあったと思う。その当時、組織としては、部長、次長、班長、その下にもいろいろ階級があった。その当時部長はほぼ全員クビになったと記憶するが、当時筆者は次長という立場にあり、役職としては最も上の責任ある立場におかされていた。
筆者は、名古屋行きについては、全く考えていないばかりか、この道からどう早く円満に足を洗うかということだけを考えていた時期でもあった。
小堀邸に結集された中で、筆者は組織体制を健全化し、民主的な経営方針を打ち出していくべきであるという具体的な形で提言を行ったのであるが、千葉に帰ったら、その事で反小堀派の代表から呼び出され「君は小堀を擁護する演説をぶったようだが、君は何としてもわれわれが名古屋に連れて行く」と勝手に決めていて、しかも高圧的な態度で筆者の翻意をせまるのであった。
筆者は、おとなしく紳士的に契約するということから、従来から契約者からは大変評価され、再度の契約なども筆者が来るのを待っているという方も多くなったが、このようなやり方について、拡張員の仲間からは、「仲里はインテリぶっているからいやだ」ということで、さんざんけむたがられ、麻雀や競輪、競馬等の博打一切をやらない筆者の存在は、あのような世界ではごく少数派に属するため、けむたがられるのはごく当然のことであったともいえる。
名古屋派遣の主要メンバーとして、筆者自身も知らないあいだに勝手に参加することを決定した裏には、筆者が株を保有していて、その資金を活用するというだけの理由であって、その他の何事でもない。
その組織が解体されるまでの実態については、文芸春秋に連載され、社会問題として話題を呼んだこともあるが、その雑誌も今筆者の手元にはない。そこで、もっと具体的にいうと小堀というその実態は、われわれにも実は良くわからない。文芸春秋が連載で特集して報道されたことで、その全容がある程度浮き彫りにされたといってもよい。
そのような事件が発覚し、身の危険を感じた筆者は、身のまわりのものだけをタクシーに持ち込んで千葉のあるホテルに2泊することにした。
仲里嘉彦


