北部圏域に世界最強のシリ
コンバレー戦略特区創設を
沖縄科学技術大学院大学に対する2019年度までの政府の累計投資総額は、1,990億5,000万円で、2020年度の予算額203億円加えると累計総額は、21,993億5,000万円に達し、復帰以降、中城新港地区の総事業費約2,500億円に次ぐ莫大な資金が投入されている。
2022年以降、国の沖縄科学技術大学院大学に対する補助率がこれまでのほぼ100パーセントから最終的には沖縄科学技術大学院大学学園法第8条により、補助率が2分の1を下回らない範囲まで引き下げられることになっており、その引き下げられた補助額を自前で、技術開発などによって稼ぐ仕組みを構築する必要がある。
このためには、沖縄科学技術大学院大学単独での技術開発が困難な場合は、わが国をはじめ世界トップクラスの知的産業クラスタ−としての研究機関を誘致して、同大学院大学と共同研究・共同開発によって技術を開発し、それをわが国をはじめ、全世界へ技術移転によって収益を上げることにより、大学院の健全な学校運営が可能となるのである。
このためには、知的産業クラスターとしての民間企業がわが国の代表的なIT企業やAI企業はもとより世界最先端を行くIT、AI企業を例えば法人税を10年間ゼロにするとか、研究機関を設置するための用地を30年間、無償で貸与するなど政府の思い切った規制緩和政策を積極的に推進することで、アメリカや中国と対等に競争可能な大胆な発想に基づいた政策を打ち出すことである。
このためには、沖縄県行政と沖縄経済界が主体となって取り組み、その実現を目指すのが最も理想的姿であるが、沖縄県行政においても、沖縄県内経済界においても、大胆に政策を戦略的に政府に迫る迫力を持ち合せていないと残念ながら判断するものである。
しからば、どのような方法で沖縄がアジアの経済発展のエネルギーを吸収し、沖縄の発展のみならず、わが国の経済成長のエンジン的役割を担うための戦略を展開し、その実現を果たすためには、矢張りかつて世界第2位の経済大国に導いた実績のある本土財界を巻き込み、沖縄経済界が強力な連携のもとに、わが国の経済成長の目玉産業としてのIT、AIを中心とした沖縄シリコンバレー戦略特区を沖縄科学技術大学院大学の立地する恩納村をはじめ、近接の金武町、宜野座村、名護市を含めた広大な地域に創設することでアメリカや中国との先端技術面においても十分競争力のある新たな先端技術集積地を沖縄に創設することである。
幸い、沖縄は日本列島のように地震による災害が沖縄の場合は少ないことや、日本に10電力会社のうち、、沖縄電力を除く9電力会社は原子力発電の整備を有するが、沖縄電力は原子力発電を有していないことから、原子力発電による事故の発生は皆無であるという安心感がある。
しかも、2017年土木学界が発表したところによると今後、30年の間に70パーセントとの確率でマグニチュード7〜9の地震が起きると発表している。地震発生から20年後における経済的損失額は、1,410兆円とわが国の年間GDP、550兆円の2.5倍に相当する莫大な額に達し、日本経済は壊滅的打撃を受けることが予想されている。
このような意味でも、自然災害が比較的少ない沖縄に世界最先端を行くIT、AI等のシリコンバレーを恒久的施設に整備することが最も適していると思われる。
そこで、具体的に本土財界と沖縄経済界が一体となって、わが国の新たな経済成長戦略として、沖縄にシリコンバレー戦略特区を沖縄科学技術大学院大学の立地する恩納村をはじめ、金武町、宜野座村、名護市に位置づけて整備することを提案するものである。
すでに政府は、2013年6月14日に沖縄県の経済成長戦略として閣議決定を見ており、今後はどう具体的に事業を展開していくかが課題であるが、そこでは本土財界と沖縄経済界が佐藤栄作総理大臣の肝煎りで進められた沖縄経済懇談会が昭和41年から50年までの10年間において東京・沖縄を交互に開催され、多くの成果を生み出したが、そこで改めてそのあらましについて記述し、そこから教訓を学びたいと思う。
そこでまず、佐藤栄作総理大臣誕生の経緯について触れて置くことが必要である。
かつての恩師吉田茂は池田勇人の3選辞退させ、佐藤栄作への禅譲を強く要求した。これは池田は所得倍増計画の経済一本論で、外交についてはまったく素人で沖縄返還がいつ実現するかまったく展望が拓かれないという焦燥に駆られていたことから、佐藤栄作を次期総理にすることで、沖縄の返還の早期実現を図るべきだという構想を吉田茂は描いていたのであったが、その思惑は完全に失敗し、ついに昭和35年7月10日の総裁選挙で池田勇人、佐藤栄作、藤山愛一郎の3人が総裁選に立候補し、ついに池田勇人が3選に当選したのである。
それから池田首相が喉頭ガンで入院したのは3選を勝ち得た2ヶ月後の9月9日であった。これから東京オリンピックが終わった翌日の10月25日に、池田首相は引退を表明した。
しかし、池田首相の退陣後の後継者として池田首相就任以降、佐藤榮作を押さえて、めきめきと頭角を現した河野一郎に池田首相は総理の座を譲り渡すのではないかといううわさが広まっていたが、最終的には吉田茂学校の保守本流の佐藤栄作で党内長老による調整の結果次期総理にすることを決定したのであった。
佐藤栄作首相は、昭和39年11月9日、池田首相の後継者として正式決定後の翌年沖縄を訪問し、沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらないというスピーチが後々まで残る名セリフとして有名になったが、佐藤首相はこの沖縄訪問に当って、教育、社会福祉など民生の向上が急務であると痛感し、沖縄と本土の一体化を促進するための本年度の沖縄援助費を昨年の約2倍の58億円にしたことについては、あまり報道されていないような気がする。
いずれにせよ、日米間において沖縄返還問題についてまったく見通しがつかず、同問題について、日米間においての話し合いのついていない段階で、沖縄訪問の1年後の昭和41年佐藤総理の肝煎りによって、沖縄の祖国復帰後の沖縄経済振興発展を期すため、日本財界人と沖縄経済界による沖縄経済振興懇談会の設置を要請し、昭和41年から昭和50年までの10年間に東京と沖縄を毎年交互に沖縄経済振興懇談会が開催され、それが昭和47年5月15日の祖国復帰以降2回にわたるオイルショックはあったものの、比較的順調に推移したことは事実であろう。
私は沖縄が祖国復帰する1年前の昭和46年6月に産業新聞社の那覇支局長として沖縄経済界の復帰後の企業運営に関する基本的姿勢等について、積極的に取材活動を展開した。また、日本政府は真剣に沖縄の復帰以降の経済問題や社会福祉問題、または本土に比べて大幅に立ち遅れた道路、港湾、空港、上下水道、電力問題等社会資本の整備を促進するため、全国に比べて高率の補助の適用が可能となる沖縄振興開発特別措置法の制定など総合的に沖縄の祖国復帰以降の沖縄の経済の自立発展を目指した政策を打ち出していったことは、高く評価されるべきであるが、私の周囲では佐藤栄作は佐藤無策だと揶揄する意見もあり、とくに革新的思想の持ち主は反佐藤でこり固まっているという感じで、それが米軍基地問題を中心に反日、反米思想を高め、親中派、親韓派を生み出す要因となっているのも事実であろう。
稲嶺一郎先生の晩年、私は1週間に1回から2回安里の邸宅を訪問し、教えを請う機会は多く、長男惠一氏の何倍も時間もあり、貴重な体験をさせて頂いたが、先生と私はまったく意見の一致を見たのは、いつまでも過去の歴史をふりかざし、恨みつらみをがなえたててばかりいる中からは、将来の発展は望めないということであった。この信条は現在においてもまったく変わりはない。
また、わが愛する堺屋太一先生は、沖縄の人間は負の遺産にのみ目を奪われている。すばらしい歴史があるのにそのすばらしい歴史的な事実にもっと目を向けた発想があれば、沖縄は必ずやすばらしい地域に発展するはずだと強調されていたことが印象に強く焼き付いている。
そこで、本論の沖縄経済振興懇談会において本土財界と沖縄経済が一堂に会して取り組んだことが復帰以降どのように沖縄経済に貢献したかについて、那覇商工開議所55年史からその一部を抜粋して記述することにする。
元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦