2015年04月01日

沖縄の飛躍発展に向けた提言集その71

沖縄の飛躍発展に向けた提言集その71


万国津梁機構第4回定期講演会19回目

2012年7月28日 県立博物館・美術館)


上原康助 元国土庁長官、北海道・沖縄開発庁長官


復帰40周年記念式典のあいさつが反響を呼ぶ


実は祖国復帰40周年記念式典が野田総理ご臨席のもとで、沖縄コンベンションホールで開催されました時に、沖縄県から私に式典であいさつしてほしいという要請がありましたので、原稿は県が用意するんですかとたずねましたところ、内容は自分でつくって結構だということでありましたので、それなら考えましょうということで書いたものをあいさつで発表したわけです。


内容は沖縄県民の党派を超えた良識の結集ということで復帰前の事とか、沖縄返還協定が強行採決されたこととか、屋良朝苗主席が沖縄県民の思いを込めた建議書を持って羽田空港に降り立った時、衆議院の沖縄特別委員会で強行採決されたことなどを書いたものでした。


そこで沖縄世論に掲載された内容を引用することに致します。


最後には野田総理と駐日米大使の両閣下に強く申し上げたいと次のようなあいさつを致しました。


民主主義は世論を尊重することが基本です。


なぜ、日米両政府とも沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのですか。


米軍普天間飛行場の移設計画が日米間で合意されてから16年余が経過しました。


十年余経っても実現できないことは、最初からその日米合意に無理があったことを実証しているのです。


周知の通り普天間移設計画はますます混迷をきたしてきています。


(平成26年4月2日発行沖縄の飛躍発展に向けた提言集より)

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仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン

仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン


第7章 人生における恩師との交流録

    その21


堺屋太一氏は30歳代で、佐藤栄作総理大臣の私邸を自由に出入り出来る唯一の官僚といわれるほど優秀な方で、筆者もこれまで、100人近い東大卒の人間とつき合いがあるなかで、堺屋氏は抜群の能力を有する人物であると高く評価していたのであった。


また昭和61年には、沖縄で開催されたアジアランドテーブル沖縄シンポジウムに参加した際、月刊「自治新報」で、21世紀の沖縄を展望するというタイトル、サブタイトルは、沖縄観光の国際化と伝統芸能・沖縄料理の国際化時代へと題するインタビューを行うなど交流が続けられた。


一度は堺屋氏に1つ護佐丸を題材に、沖縄の小説を是非執筆して頂きたく、資料も提出したが、その時、沖縄に護佐丸の小説を書く適当な人がいるはずだからということで、結果的には断られたこともあった。


堺屋氏は、昭和45年に開催された、大阪万国博覧会を担当して成功させ、また沖縄国際海洋博覧会を成功させるなど、堺屋氏は博覧会屋というニックネームがつけられた。


以降経済企画庁長官として活躍されたが、そのときに筆者は小渕恵三総理や河野洋平外務大臣、堺屋太一経済企画庁長官に筆者が発行した「サミットと北部経済の将来展望」について、それぞれ本を贈呈したが、小渕総理からは秘書を通じて2度もお礼の電話を頂き、河野外務大臣と堺屋太一長官からは、それぞれお礼の葉書を頂戴したのであった。


最後になったが、堺屋氏の40代の頃、新宿の音羽の自宅に夜の12時頃電話すると、この時間帯はお客さんで立て込んでいるから、夜中の2時頃に電話してくれということを云われたことがあった。


堺屋氏ほどの優れた方でも、夜中まで勉強しているということを筆者は強く意識することとなり、一人前の人間になるためには、夜中の時間を頭を磨くために有効利用することだという信念に基づき、以来40年近くも夜の12時頃から朝の7時頃まで起きて書き物や読書、夜中の1万歩の散歩と、人様の寝ている頃、勉学に勤(いそ)しんでいるのが実情で、それは堺屋氏の習慣を模倣することにしたのである。


(仲里嘉彦が描く沖縄のグランドデザイン「第7章」より)

posted by 春夏秋冬 at 06:57| Comment(0) | 仲里グランドデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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