2014年04月22日

東京のさくら名所今昔 その34

東京のさくら名所今昔 その34



以上が江戸期における上野の桜の概要であるが、一時期の愛桜家が何を見ているかを、以下他の名所とともに記載しておきたい。

先人と行を共にすることのできることは、その貴重なる記録あればこの喜びでもある。

主としてあげる『南畝花見の日記』は、大田蜀山人が1792(寛政4)年2月9日から22日にわたって、各所を廻り歩いて記したものである。

彼は幕府の役人として70余歳まで勤め、支配勘定役にもなっているが、元来は儒者で国学にも通じ、後に狂歌から洒落本、黄表紙などの作者として活躍し、そのかたわら多くの随筆、編著を残したことでも知られている江戸の粋人中の粋人であった。

17日 陰夕晴

 花友 十千亭


未(ひつじ)のさかり論衡といえる文よみさして上野にいたる、麗水にあふよろこびいはん方なし、 上野山王桜が峯の花、一重大かた4種類ほどなるべし


1  白桜 葉茎ともに青く花白く中りんより小さき方なり

1 白桜に似て酔色ある蘂(しべ)は細(こまか)に見事なる


1 蘂(しべ)は紅にして花大なる

1 山桜のことくにて、うつろひたる二木大木なり、山王宮の東にあり、これなんむか    しのたねなるへし


(相関芳郎著 東京都公園協会監修による東京のさくら名所今昔より)

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壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その456

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その456



 呉屋会長 昭和20年8月15日、米国軍政府副長官ムーレー大佐により、沖縄人による諮詢委員会を設置し、沖縄県民の政治、経済、福祉、教育諸問題の向上について審議があり、沖縄県民にとって、新しい希望がよみがえり、翌年4月22日には、諮詢委員会がそのまま沖縄民政府となり、志喜屋孝進知事のもとに、沖縄県民による行政がはじまり、戦場を彷徨していた県民は米軍の保護で、それぞれの郷里に帰り復興に努めることになったわけです。

その後、琉球政府により昭和28年より復帰する昭和47年5月14日まで、地方自治行政が米軍の支配体制下のもとで行われました。


首里城復元の経緯については、琉球政府時代から、今日まで政府のご協力によりすすめられたことについては、仲吉副会長よりご説明されましたとおりでありますが、私からも若干重複する面もありますが触れてみたいと思います。


戦災文化財の復元につきましては、昭和32年より事業がはじめられ、守礼門、歓会門等の復元がすすめられてきたところでありますが、琉球大学の移転に伴い、その跡地利用の計画が種々検討されました。


これらの検討を踏まえて、第2次沖縄振興開発計画の中で、首里城一帯の整備が提言され、さらにこれを受けて昭和59年には沖縄県が首里城復元整備の指針となる「首里城公園基本計画」を策定しました。


(平成91025()春夏秋冬社発行の「壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像」より)

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2014年04月21日

東京のさくら名所今昔 その33

東京のさくら名所今昔 その33



以来、上野はいっそう江戸の名所としての名声をほしいままにし、「東叡山の桜、江都第1の花の名所なり」(『江戸砂子』1732)、「当山は江都第一古き花の名所なり」(『四時遊観録』1776)、「当山は江戸第1の花の名所なり」(『増補江戸年中行事』1803)、「東叡山江戸第1の桜花の名勝」(『江戸名所図会』1836)などと多くの案内書に記されていった。

入来る入来る桜時のえいとう東叡人の山、いやが上野の花盛り皆清水の新舞台、賑わしかりける次第なり(長唄、「元禄花見踊」)。


花の見頃はといえば、『東都歳事記』によれば、彼岸桜・枝垂桜は立春より54、5日目頃より、単弁(ひとえ)桜は同60日目頃より、重弁(やえ)桜は70日目の頃より、遅(おそ)桜も同じ頃よりとしている。


それらが「山王の山口よりしるく咲そめて、中堂の辺しばらくおそし、これは吉野山の例に植られたり。


見わたせばふもとばかりに咲きそめて、花もおくあるみよしのの山≠フ心也」(『江戸砂子』)のはからいの上に、「彼岸桜より咲出て一重八重追々に咲きつつき、弥生の末まで花のたゆることなし」(『江戸名所花暦』)と、さすが桜の本山だけの量と質のよさを誇っていた。


今も山下口から中央の園路を進んで間もない左側の植込みの中に、「一面の花は碁盤の上野山 黒門前にかかる白雲」の蜀山人の句碑があり、往年の黒門の位置と花の景況を思わせるが、このあたりから中央遠方に建つ文珠楼や中堂に向って見る桜が、最も奥行きを感じさせ、花のうつろいを眺めるのに適していたのであろう。


(相関芳郎著 東京都公園協会監修による東京のさくら名所今昔より)

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