2014年04月28日

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その461

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その461



 又吉副会長 1719年に、徐保光が冊封使として琉球にもきますが、それから中国に帰って、2年後に中山伝信録の中に、中山首里城正殿の図が出ておりますが、それにも小さく唐破風が出ております。

1719年の冊封使が琉球王国に派遣されたときに、絵師はつれてこなかったと私はみているんですよ。

絵師がきているなら現物をみておりますから、それなりに、もっとりっぱな物になったと思うわけです。

従って絵師がそのときに来ておりませんので、冊封使で琉球に派遣された役人から説明を受けたため、想像で唐破風をまるく描いたものですから、小さくつくったとみるのが当たっていると思います。

それから1世紀前の1609年に薩摩軍に琉球王国は侵略されて、島津の属領となっておりますので、首里城が焼失すると中国から冊封を受けることができないことを薩摩はわかっておりますから、木材を寄贈して復元に協力したという思惑があったと解釈すべきだと思います。


それを島津側の立場に立って考えると琉球を助けてよかったということになると思います。


何故ならば、琉球が中国や東南アジアとの交易で繁栄したのを裏でその利益を吸い上げることをするためには、中国側に対しては、琉球が独立国であるようにみせかける必要があったからだと思います。


 ―― この辺で、仲吉副会長にお話を頂きたいと思います。


 仲吉副会長 先程も申し上げましたように、首里城復元につきましては、昭和33年、琉球政府時代に守礼門復元の工事が行われ、その後、年次的に円覚寺総門、弁財天堂、天女橋修理、首里城歓会門、玉陵、久慶門、園比屋武御嶽石門保存修理などが相次いで整備され、昭和59年自民党沖縄戦災文化財復元等に関する小委員会が、「首里城復元等首里城公園に関する構想」を発表し、翌昭和60年度政府予算案に、首里城正殿等基礎調査が計上されました。


(平成91025()春夏秋冬社発行の「壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像」より)

posted by 春夏秋冬 at 07:14| Comment(0) | 壮大なる沖縄ロマン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月26日

東京のさくら名所今昔 その38

東京のさくら名所今昔 その38



向 島

「弥生の頃は、長堤桜花ひまなくて、よそ目には一匹の練(白いねりぎぬ)を引かとあやまたる。


都下の良賤日毎ここに群遊し、樹下に宴を設け、歌舞して帰を忘るるは、実に泰平の余沢にして、是なん江都游賞の第一とぞいふべかりける」とは、1838(天保9)年刊の『東都歳事記』のいうところである。


いまも言問橋に立って、隅田公園の墨田区側の墨堤を眺めると、環境上多くの困難をともないながらも、花が白雲のたなびくがごとく咲き連なり、さながら白布を長くはりめぐらしたかと思わせる光景に接することができる。


ワシントン市に桜の移植を思いついたシドモア嬢も、この河畔に桜の咲く明治の向島の景を見てのことであったという。


現在は上には高速6号線、横には都道、また護岸上はコンクリート柵が立ち、歩道も幅4メートル程のもので、花下での游賞も昔のようなのどかさはないが、区の思いやりのある管理で、毎年見事な花が咲く。


大変喜ばしいことである。


昔から何回か地元の民間有志による補植が行われてきたという過去の歴史をもつのが、向島の桜の歩んだ道であり特徴でもある。


隅田川の桜に関する記述は、沿岸に桜をみたという太田道灌の詩が最初である。

ただし向島が江戸に編入されたのは1686(貞享3)年将軍綱吉の時のことで、それまでは「下総の花を江戸っ子自慢する」といわれても致し方なかった。

(相関芳郎著 東京都公園協会監修による東京のさくら名所今昔より)

posted by 春夏秋冬 at 07:24| Comment(0) | 東京のさくら名所今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その460

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その460



 又吉副会長 ところが、さらに、1709年尚貞王時代に首里城正殿、北殿、南殿が焼失しておりますが、1712年に琉球国内では、これだけの木造建築物ですから調達が困難とみて、島津藩に木材を買いに出掛けるわけですが、薩摩太守島津吉貴より木材1万9,525本の寄贈を受け、それで1715年に首里城正殿、北殿、南殿が復元されております。

ですから木材が揃うか揃わないかで往時の建築の進捗状況がわかります。

1660年に正殿、北殿、南殿が焼失したときは、その復元までに11年の歳月を要しておりますが、それは本島内から木材を大量に調達したことから、それだけ期間がかかったわけですが、1709年に首里城正殿、北殿、南殿が焼失したときは、島津吉貴から寄贈されたこともあって、復元までにわずか3ヶ年を要しているにすぎないわけです。

琉球王府が、島津藩に木材調達に行くときには、すでに首里城正殿正面の基壇と石造の欄干は出来上がっていたと思うわけです。


島津には木材を調達に行ったときにいろいろと宮殿を視察したと思うんです。


宮殿であっても正面を強調するためには、唐破風を取り付けた方がよいということになって、唐破風を取り付けることになったと思うんですよ。


正面の唐破風がある部分は、ちょっと突き出ているんですよ。


そうしますと、本当ですと基壇も突き出た部分まで出さないといけないわけですが、基壇は前につくってあったので、そのような建築になったといえると思うわけです。


石造欄干と柱の位置が五十センチしかないんですよ。

それから唐破風を取り付けたと思います。


(平成91025()春夏秋冬社発行の「壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像」より)

posted by 春夏秋冬 at 07:17| Comment(0) | 壮大なる沖縄ロマン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。