2014年04月30日

東京のさくら名所今昔 その40

東京のさくら名所今昔 その40



去れど桜樹は6、70年に達すれば必ず枯朽するを常とす。故に維新以後は官之を保護することなく、只僅々たる墨堤の住民の手に任せたるを以て頗る乱雑に赴き、桜花年々衰朽す。

大倉喜八郎氏居を向島に卜するに及び之を慨し、柳翁(成島柳北のこと)に語りて共に力を尽し、白鴎社員の賛助を得て凡そ1,000株を増補したるは是れ明治16年冬10月なり(『隅田の由縁』)。

このうち文化年間の折には、亀田鵬斎・大田南畝・大窪詩仏・谷文兆・酒井抱一ほかの文人墨客がこれに協賛しており、嘉永7年(安政元年)には法橋胡民・3代目佐原菊塢・青々抱二らの発起による桜勧進と称した奉賀帳を廻したもので、このような華勧進は明治7年にも永機宗匠とともに俳優三升(9代目市川団十郎)梅幸らも幹事として名を列ねて行われている。


なお水戸邸前に植えた翌年にも、寺島村の有志によって地先の堤上に補植されている。


幕府からこの管理を命じられた名主は、後継樹の育成とともに、四季の掃除・施肥・見廻り等に意を注ぎ、「御用木ニ候間枝折又は抜取らざるべき者也」と制札を立て、花見の頃は夜間提灯を立てたという。


隅田公園になり昭和4年当時の桜に「枝を折るものは一指を断つべし」との、弁慶が須磨の桜につけた例に倣った短冊が下げてあったのを、子供心にも強く印象に残った覚えがあるが、これも古くからの伝統によったものだったのであろうか。


(相関芳郎著 東京都公園協会監修による東京のさくら名所今昔より)

posted by 春夏秋冬 at 07:22| Comment(0) | 東京のさくら名所今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その462

壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像    その462



 仲吉副会長 昭和611128日、「国営沖縄記念公園首里地区」として、首里城跡約4ヘクタールを整備することが閣議決定され、また、国営公園予定地の周辺を県営公園とすることについて庁議決定され、那覇市においても史跡「龍潭及びその周辺の保存整備計画調査が実現されるなど、首里城と、その周辺を含めた約18ヘクタールが国営および県営公園として長期にわたって整備される予定となっております。

昭和48年に、首里城復元期成会が発足して以来、私は事務局長をおおせつかってから今日まで、ずっと事務局長をやらせて頂いておりまして、現在は副会長として仕事をやらせて頂いております。


私が事務局長になりましたのは、72歳のときでありましたが、期成会の仕事をやっておりますと、年をとるひまもなく、これまで来たような感じであります。


この度、復帰20周年記念事業の一環として、首里城正殿、北殿、南殿がそれぞれ復元されたわけでありますが、まだ白銀堂など手がつけられていない施設もありますので、それらの整備についても引き続き、国のご協力で早期復元をして頂きたいと思っております。


首里城には、昭和天皇が摂政官時代大正10年3月ヨーロッパ視察の際、首里城にも行啓なされておりますゆかりの地ともなっておりますので、首里城全体が復元されることは、県民はもとよりわが国の文化財として後世に引き継いでいくことが、われわれに与えられた使命であると考えております。


(平成91025()春夏秋冬社発行の「壮大なる沖縄ロマン・夢を追い求める群像」より)

posted by 春夏秋冬 at 07:19| Comment(0) | 壮大なる沖縄ロマン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

東京のさくら名所今昔 その39

東京のさくら名所今昔 その39



堤防上に初めて桜を植えたことについては諸説があるが、吉宗の時からとする文献が多い。

俳人正岡子規は別説をとっているが、明治までの植栽の経緯を次のように記している。


墨堤へ始めて桜を植付けしは4代将軍の時にあり。


徳川氏覇府を開きしより、隅田寺嶋須崎小梅4ケ村は射猟の場にてありしなり。(中略)。


厳有公(家綱の尊称)堤上の風情なきを以て桜樹を常州桜川より移し木母寺畔に植え、享保2年(1717)有徳公(吉宗の尊称)また新たに100本を須田の渡ロに植え、11年に至り、桜柳桃150本を植えまし札をたてて伐採を禁じ、名主坂田三七郎に命じて、桜御用掛とし銀4両永150文を手当として下附セリ。


これより墨堤の桜花稍盛なり。


然れども隅田より以南へは妄りに植添うるを許さざりしに、寛政以後世の中太平にして、大小名も武骨の風を失い、歌舞遊宴の風大に起り、文化に至り寺嶋村の花屋佐原菊塢浅川黙翁等鄰人と計りて、白髭神社へ奉納の口実を以て八重桜150本を白髭の南北に植えたり。


天保2年(1931)坂田三七郎200余株を寺嶋須崎小梅の3ヶ村へ植え、益盛となり四民の群衆夥しかりき。


それより嘉永7年(1854)又200株を補い三囲近辺に植えたり。


弘化3年(1846)隅田川大水、堤防を破壊し、桜樹を流損すること無数なり。


墨上の眺望殆んど尽きんとす。


此時植木師宇田川惣兵衛なるもの家産衰えたるをも屈せず、憤激して桜樹150本を長命寺畔に植えたるを以て、危急を維持し、明治7年(1874)小梅村の晋永機子其村境に若干の樹を植え、明治13年水戸家にて邸前へ植えられたるより、遂に墨堤2,100余間(約3,820余メートル)の間、桜樹連続して都人士の眼を慰むるに至りたり。


(相関芳郎著 東京都公園協会監修による東京のさくら名所今昔より)

posted by 春夏秋冬 at 07:20| Comment(0) | 東京のさくら名所今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。