
仲里嘉彦の自叙伝
〔わ が 恩 師〕
小さき胸に抱きしデッカイ夢 (その146)
稲嶺一郎先生は、1960年に財団法人・琉球産業研究所を設立し、先生が理事長となり、スタートは本部町の崎本部の町有地12,000坪を試験地としたが、1960年10月、当時の羽地村、久志村、東村にまたがる大湿地帯試験地で、約60万坪の広大な面積を琉球政府から」借地した。
この大湿地帯の開墾には沖縄産業開発青年隊の協力もあって進められ、様々な実験栽培を行ったが、最も広く普及したのは、タンカン、ネピアグラス、クミスリチュなどである。
いずれも稲嶺先生が海外から持ち帰って栽培したものであるが、タンカンの収穫時には安里の稲嶺先生のお宅で大湿地帯でとれたタンカンですということで、ご馳走になった。
沖縄の牧草は、雑草が殆んどで牛の飼料としては成長の早い外来の牧草を輸入しようということから、ハワイからネピアグラスを飛行機で運ばれたことから、とうとう稲嶺さんも気が狂って雑草を飛行機で運ぶようになったと笑われておられたこともあった。
その後、ネピアグラスは、沖縄全県下に普及し、牛の飼料として多く利用されるようになり、ネピアグラスを輸入した稲嶺先生の名前をつけて、一郎草といわれるようになったとお話をされたこともあった。
それからわれわれ一般的には飛行機が空を飛ぶことに何の不思議も感じないのであるが、稲嶺先生はまるで小学生が疑問を抱くように、何故あれだけ重たい飛行機が空を飛ぶのか不思議でならないと云われたことにはびっくりしたものだが、よく考えてみると先生のおっしゃることが素直な感情だということに思いを致すのであった。
稲嶺先生には、一度だけ注意されたことがある。ある時あなたのつけているネクタイは人から軽くみられるからよしなさいといわれたことがある。
普段服装には無頓着なほうで、外見をあまり気にしない性質だがネクタイで人が軽くみられるといっても、筆者にはピンとこないのである。もともと筆者は人間的には軽く出来ているのであって、けっして他人から重くみられているとか、または重く見られたいという気持ちはなく、何だか先生から人間軽く見られるからこのネクタイはよせといったことが理解できないのである。
稲嶺先生には、沖縄開発事務次官を歴任された加藤泰守先生や、ハワイの運輸局長を歴任され、その後ハワイ県人会会長の東恩納氏などを紹介したりもした。
先生とは蔡温のようなりっぱな林学指導者により、沖縄全県緑化を誕生しようという話しあいをしたり、東南アジアとの交流拠点として、沖縄から将来発展する方向を目指すべきだという持論を展開され、いつもあなたの考えをこれからの沖縄の将来に活かすよう努力してくれということが口癖であった。
先生は、沖縄国際センターの誘致にも多大な貢献をされたが、この沖縄国際センターの定礎の記念碑を毛筆で書き上げるために、何十回と失敗し、やっと出来上がった毛筆を高々と両手で上げようと立ち上がったところを絨毯の端をめくりあげたため、そのまま転倒し、ついに足を骨折したのであった。
先生はこの骨折のことについて文字通り、沖縄国際センターのために骨を折ったとシャレをいっておられた。
それから何週間もソ連に関する本が3冊ほど応接間に積まれていたので、何気なしに、ソ連はどうなりますかねと尋ねたところ、さらりとソ連は間もなく崩壊だろうといわれたが、それが2、3年してソ連が崩壊したことにはびっくりしたものである。
先生は国際情勢についても敏感に判断できるものだとびっくりしたものである。
また、先生はどのような時でも筆者が帰る時は、かならず玄関まで見送って頂くことが習慣になっている。
先生が足を骨折していた時期に、玄関まで杖を突いて送りになられるので、筆者は、私ごときにわざわざお見送りされることはございませんとお断りをしたところ、これは私の足のリハビリ―のためだといわれて、また1本取られたという感じであった。
仲里嘉彦


