2012年05月25日

仲里嘉彦の自叙伝〔わが恩師〕小さき胸に抱きしデッカイ夢 (その146)

仲里嘉彦理事長


仲里嘉彦の自叙伝


〔わ  が  恩  師〕


小さき胸に抱きしデッカイ夢 (その
146



稲嶺一郎先生は、
1960年に財団法人・琉球産業研究所を設立し、先生が理事長となり、スタートは本部町の崎本部の町有地12,000坪を試験地としたが、196010月、当時の羽地村、久志村、東村にまたがる大湿地帯試験地で、約60万坪の広大な面積を琉球政府から」借地した。


この大湿地帯の開墾には沖縄産業開発青年隊の協力もあって進められ、様々な実験栽培を行ったが、最も広く普及したのは、タンカン、ネピアグラス、クミスリチュなどである。


いずれも稲嶺先生が海外から持ち帰って栽培したものであるが、タンカンの収穫時には安里の稲嶺先生のお宅で大湿地帯でとれたタンカンですということで、ご馳走になった。


沖縄の牧草は、雑草が殆んどで牛の飼料としては成長の早い外来の牧草を輸入しようということから、ハワイからネピアグラスを飛行機で運ばれたことから、とうとう稲嶺さんも気が狂って雑草を飛行機で運ぶようになったと笑われておられたこともあった。


その後、ネピアグラスは、沖縄全県下に普及し、牛の飼料として多く利用されるようになり、ネピアグラスを輸入した稲嶺先生の名前をつけて、一郎草といわれるようになったとお話をされたこともあった。


それからわれわれ一般的には飛行機が空を飛ぶことに何の不思議も感じないのであるが、稲嶺先生はまるで小学生が疑問を抱くように、何故あれだけ重たい飛行機が空を飛ぶのか不思議でならないと云われたことにはびっくりしたものだが、よく考えてみると先生のおっしゃることが素直な感情だということに思いを致すのであった。


稲嶺先生には、一度だけ注意されたことがある。ある時あなたのつけているネクタイは人から軽くみられるからよしなさいといわれたことがある。


普段服装には無頓着なほうで、外見をあまり気にしない性質だがネクタイで人が軽くみられるといっても、筆者にはピンとこないのである。もともと筆者は人間的には軽く出来ているのであって、けっして他人から重くみられているとか、または重く見られたいという気持ちはなく、何だか先生から人間軽く見られるからこのネクタイはよせといったことが理解できないのである。


稲嶺先生には、沖縄開発事務次官を歴任された加藤泰守先生や、ハワイの運輸局長を歴任され、その後ハワイ県人会会長の東恩納氏などを紹介したりもした。


先生とは蔡温のようなりっぱな林学指導者により、沖縄全県緑化を誕生しようという話しあいをしたり、東南アジアとの交流拠点として、沖縄から将来発展する方向を目指すべきだという持論を展開され、いつもあなたの考えをこれからの沖縄の将来に活かすよう努力してくれということが口癖であった。


先生は、沖縄国際センターの誘致にも多大な貢献をされたが、この沖縄国際センターの定礎の記念碑を毛筆で書き上げるために、何十回と失敗し、やっと出来上がった毛筆を高々と両手で上げようと立ち上がったところを絨毯の端をめくりあげたため、そのまま転倒し、ついに足を骨折したのであった。


先生はこの骨折のことについて文字通り、沖縄国際センターのために骨を折ったとシャレをいっておられた。


それから何週間もソ連に関する本が3冊ほど応接間に積まれていたので、何気なしに、ソ連はどうなりますかねと尋ねたところ、さらりとソ連は間もなく崩壊だろうといわれたが、それが2、3年してソ連が崩壊したことにはびっくりしたものである。


先生は国際情勢についても敏感に判断できるものだとびっくりしたものである。


また、先生はどのような時でも筆者が帰る時は、かならず玄関まで見送って頂くことが習慣になっている。

先生が足を骨折していた時期に、玄関まで杖を突いて送りになられるので、筆者は、私ごときにわざわざお見送りされることはございませんとお断りをしたところ、これは私の足のリハビリ―のためだといわれて、また1本取られたという感じであった。

仲里嘉彦

posted by 春夏秋冬 at 06:53| Comment(0) | 仲里嘉彦の自叙伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

万国津梁機構 第2回講演会報告 その17

万国津梁機構 第2回講演会報告 その17


太田範雄万国津梁機構顧問兼物流委員長


つぎにアジア・ポートの適地条件と日本への立地については、5つあげることができます。


1つには、
20万トンから30万トンの船舶が入港可能な20から30メートルの水深を持つ大型港湾を安価に建設できることです。


2つには、マーケットとなる経済圏の中で、輸送上最も効率的な位置にあることです。


3つには、アジア・ポートをもつ国に経済力、消費力がある程度なことです。


4つには、アジア・ポートをもつ国の経済及び政治が安定していることです。


5つには、アジア・ポートをもつ国との間に政治的対立がないことなどであります。


この5つの条件が満たされたところであれば、アジア・ポートの立地は、アジア・太平洋地域のどの地点でもよいと考えられますが、これらの諸条件を検討し、経済圏を日本、韓国、中国、フィリピン、台湾までを考えるならば、立地地点として、日本の南西部が考えられており、そこでいう南西部は沖縄を指していると思われますので、これからアジア・ポート構想が具体的に動き出すことになれば、沖縄が積極的に働きかけてその実現を図ることであります。


このアジア・ポート構想が浮上した頃の昭和
50年代中頃まではわが国の食料自給率も70パーセントまでありましたのが、現在では40パーセントを割り込み、39パーセントになっておりますが、TPPが実施された場合は、農林水産省の資産では、14パーセント食料自給率は低下する見通しであり、とくに沖縄の基幹作物であるさとうきびや畜産などは壊滅的打撃を受け、沖縄農業は成り立たなくなるという危機感があります。


TPPの締結がないにしろ、貿易自由化、関税障壁はいずれ撤廃されることになるため、わが国の
100倍のアメリカ、さらには1,500倍のオーストラリアが関税の撤廃になれば、わが国農業は壊滅的打撃を受けることはさけられません。


このような事態に対処するためには、ラテン・アメリカをはじめ、世界的に広大な国土を持つ発展途上国において、わが国の資金援助と技術協力によって穀物を開発輸入のためのアジア・ポートを沖縄に誘致することであります。


このアジア・ポート構想こそが、わが国をはじめ、東南アジア諸国の食料安全保障基地としての役割を沖縄が担うことにより、これまでの日米の軍事同盟である安全保障条約から食料の安全保障基地に転換することが世界に平和を発行する沖縄を構築し、その実現が図られるものと確信するものであります。


さいわい、沖縄県では国際物流特区を拡大する計画でありますが、この中に金武湾も組み入れて国際物流港として位置づけるよう要望するとともに、沖縄県から国に対し、アジア・ポート構想の実現に向けた提言をして頂きたい。


それではこの辺で私の私案であります国際物流港湾としての開発構想について具体的にご説明を致したいと思います。

posted by 春夏秋冬 at 06:44| Comment(0) | 万国津梁機構講演会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沖縄の夜明け その6

沖縄の夜明け その6


社長に対しアルコアの外資導入問題がいかに重大な内容を含んでいるかを力説すると共に、沖縄経済の現況と復帰以降の展望、さらには地元企業のプロフィール紹介等約
15分にわたって力説し、その場で仲里沖縄特派の決定が下された。


通常なら編集会議に計るとか、社長直訴という形式を取ったとしても編集局幹部の意向を聞いた上で決定を下すとかいづれかの方法を選択するものだが、そのいずれも取らず筆者の直訴を受けてくれた。


ワンマン社長であり、即断、即決のできる経営者として矢張り優れた人物であったと今は亡き亀尾社長の冥福を祈る気特でいっぱいである。


しかし、沖縄特派の決定が下されてから、騒然たるものが筆者を取り囲んでいることを感じざるを得ない。


会社の組織原則を無視したものに対する当然の帰結として甘んじて受け入れなければという思いであった。

仮に会社内で十分な根回しをして社長決裁を仰ぐという手順を踏んでいくとその後の那覇支局開設ということは実現しなかったであろうし、また、特派員として沖縄の地を踏むことはなかったであろう。人間の運命は分らないものである。


沖縄へ特派員として派遣されたのは昭和
46年2月から3月にかけて約2週間であった。


当時の沖縄財界の一般的受け止め方として外国資本の沖縄進出についてはだいたい歓迎するというムードがあり、一方本土側資本に対してはそれほど雰囲気的によいといわれる状態にはなかった。


(鰹t夏秋冬社昭和
57113日発行の「沖縄の夜明け」より)


posted by 春夏秋冬 at 06:39| Comment(0) | 沖縄の夜明け | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする