2021年05月13日

沖縄発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁


    沖縄発展の基礎を築いた

   第8代沖縄県知事・奈良原繁


その25


奈良原知事の在任中北条侍従は4、5回にわたって沖縄に来られ、明治3411月7日北白川宮妃殿下は、台湾からの帰途来県された。

北条侍従は本島内は勿論、久米島・宮古・八重山まで教育視察され、運動会、展纜会にも参列され、北白川宮妃殿下は師範学校中学校をはじめ、首里の女子部、那覇の女子部の両小学校を参観された。

そして帰京後、明治35年(1902)4月14日、沖縄教育奨励もために師範学校・中学校・首里・那覇の小学校に金200円を下賜された。

また、同年7月には天妃小学校へ写真を下賜された。

このように奈良原知事は、教育第一主義で県治を推進したので初等教育の普及は勿論、男女中等教育も進んで廃藩置県後の人心も安定し正道につくようになった。

この外に知事は沖縄の制度・職制を改廃し、大事業である土地整理を行い、租税制度を整備し、那覇港を浚渫築港し製糖改良事務に力をつくして産業を盛んにした。

沖縄の政治・産業・経済・文化・教育等の重要事業は、奈良原知事時代に解決され、またそれらの基盤が築かれたといっても決して過言ではないのである。


勧学の歌


男爵 奈良原繁 作歌

        石川清信 作曲


我沖縄は昔より 龍宮城と唱へられ

南の海の島なれば 霜だにおかず署からず

5日の風に10日の雨 げにこそ安楽世界にて

励む人には幸福も 又浅からぬ国なれや

今は昔と異りて 我大君の御恵みに

都も鄙もへだてなく 学びにわざに開けけり

斯かる楽しき御代にあひ かかるゆたけき地に生まれ

世のすぎはひに苦しむは 皆わがなせる罪ぞかし

40餘萬の人々よ 老も幼きもおしなべて

学べや励め怠らず 稼ぐに追しくものぞなき


*楽譜は省略

    註「琉球教育」諦九90号・明治37年2月所載。


 この歌は、明治36年(19031115日県令第38号をもって、本県小学校唱歌として採用したものである。

沖縄の風土賛美と勤勉力行主義と天皇主義の3つの柱で構成され、当時の教育思想の一端をみることができる。つぎに、奈良原知事の功績について考えてみたい。.



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

                        沖縄県浦添市屋冨祖2丁目19

              TEL098−8768896 FAX0988768473







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2021年05月12日

沖縄発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁


    沖縄発展の基礎を築いた

   第8代沖縄県知事・奈良原繁


その24


奈良原知事の教育優先主義と功績


前にも述べたように、奈良原知事が就任した当時の沖縄は人心が動揺してその去就が未だ定まらず、思想的・政治的・経済的動向は依然変らず混沌とした状態であった。

これに直面した奈良原は旧制改革・産業開発・教育振興の3大政策を立て、特に教育第1主義を堅持して沖縄開拓に当った。

 このころの沖縄教育を就学率からみると、男子20%、女子5.6%で、しかも教科書・文具を給与し、遠い通学距離の児童には旅費を支給し、女子には抽選法によってしかも教科書・文具を給与し・遠い通学距離の児童には旅費を支給し、女子には抽選法によって就学を強制していた状態であった。

そこで、知事は赴任後ただちに、地方の学校や役場を巡視して県内もれなく実情を調査し、小学校へはおみやげとして白紙二、三百束宛を贈って学事を奨励し、教職員へは諄々と鼓舞激励の訓示をした。

夜間は宿泊所において役所長・間切長・校長・教員・巡査・医師・古老等上下の別なく招いて懇談会を開き、酒間談笑の中で情をつくして世論を聞くとともに知事の県治方策についても隔意なく披瀝したので、彼の人徳を大いに感じ彼の県治方策がよく理解されるようになったのである。

ことに教育優先の県治を推進したので、就学児童数が激増し、これにともなって学校新築が相ついで起こり、各間切村々は教育振興の気運に向い、教育界もまた非常に活気を呈するようになった。

 そこで、学校の開校式がひんぴんと行われたが、知事は交通不便にもかかわらず馬籠を利用し、小舟を利用して南船北馬の教育行脚の旅をつづけ、学校の大小土地の遠近を問わず必ず臨席し、大いに教育の普及奨励につとめた。

また、県下教育者の自主的団体である県教育会を重視し、男女教員養成の方法、壮丁教育、社会教育、補習教育、県外視察、出席督励、隣校研究会等の県教育に関する事項を確定しようとする時には、民主的に必ず各郡区の部会に諮問してこれを本会にとりまとめ、さらに総会にかけて審譲の上で実行に移したので、その効果も著しいものがあった。

総会は会期2、3日にも及んだが、知事は始終臨席して教育会の意見を聞き県外視察のためには在職中毎年当時としては莫大な金額百円の寄附をしたくらいであったので、教育界の熱心さも一通りでなかった。

また、明治36年1月には「勧学の歌」(後掲)をつくって、県下の小学校に歌合せ、あるいは実業教育を奨励し、郡視学会、中学小学連絡会盛んにし、、女子教育には一層の奨励を加えた。知事は沖縄の発展を期するためには女子教育を振興することがもっとも重要であると考え、高等女学校生徒の他府県紫亜冊旅行をも自ら進んで計画した。

この他府県視察は、単に見聞を広めるだけでなく、沖縄を他府県へ紹介する効果があり、それには高等女学校生徒の他府県旅行が最も大切であると考えられたからである。

だが、残念なことにこの計画は時期尚早にして、この時は実現に至らなかった。この時の東京の宿泊所は知事の私宅とまで決められていたといわれる。



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

                        沖縄県浦添市屋冨祖2丁目19

              TEL098−8768896 FAX0988768473






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2021年05月11日

沖縄発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁


     沖縄発展の基礎を築いた

    第8代沖縄県知事・奈良原繁


その23


奈良原県政の教育振興最優先主義


 奈良原知事は明治36年には「勧学の歌」を自作し、文部省検定小学校に唱歌として認定を受け、明治36年1月15日県令38号を以て発布され、県下の小学校で歌わせたことをみても明らかのように人材育成に対する情勢は並々ならぬ凄まじい意気ごみを感ずる。

 人材育成は今昔東西あるいは未来の国づくりをはじめ、、個々の人間の教養を高め、社会に貢献する人材を育成することは学問を最優先した国家の政策なり。

 地方自治政策を推進する必要があると判断するものである。このような意味でも奈良原知事の教育優先主義は沖縄発展の基礎を築いた功績として高く評価するものである。

 そこで、宜野座嗣剛著「沖縄近代史」に奈良原知事が実践してきた沖縄における教育がどのようなものであったかについて極めて適切にしかもコンパクトに凝縮した形で記述しているので、それを引用することによって、奈良原知事に対する沖縄県民の認識を改める契機になればという思う次第である。


明治後期の沖縄教育と奈良原繁


 明治後期の沖縄の教育・文化・政治・産業および経済・諸制度等について考える場合、忘れることのできない人物は第8代県知事奈良原繁である。

琉球処分は首里王府を解体し、沖縄県政をスタートさせた。

それにともない封建遺制の旧慣諸制度は早晩改革され、近代的諸制度が施行されるはずであった。確かに学制などはいち早く施行され、警察、郵便制度等も整備された。

しかし、これらの改革、新制度の導入は旧来の社会の枠組と対立しない部分に限られていた。

特に地割制を基本とした土地制度、それに依拠した租税制度は社会の根幹をなすもので、全くの手つかずで温存されていた。

 地割制下の土地は百姓地、オエカ地、ノロ地、仕明地に区別されたが、開墾者の私有となる仕明地を除き、その他はいわば王府の所有地であった。

百姓地は勿論、総地頭、脇地頭及び地頭代以下地方役人層の采地であったオエカ地、ノロの采地のノロ地等、すべて耕作するのは農民であり、彼らは王府所有の土地を耕す農奴同然の境遇にあった。

旧支配層は知行及び采地からの作得を農民の労働に依存していた。

さらに租税の賦課も本島では間切単位、先島では個人を対象とした人頭税が行われ、それも現物納が建前であった。

これら旧慣制度を温存した理由は旧支配層への配慮であった。

金禄公債による秩緑処分の開始以来、中央の知行、地頭地特の士族は采地との関係を断たれたが、地頭代以下の地方役人層は相かわらず旧慣存続の中で農民を搾取していた。

 政府、県は処分後の沖縄統治にあたり、旧慣存続の弊害を知りつつも、頑固党と開化党の対立抗争と日清紛擾のさなか統治の安定を第一義として、最も安易な方法として旧地方役人層をそのまま支配機構の末端に組み込んでいったのである。

それが旧慣存続の大きな側面であった。しかし、県の懸念はやがて具体化してくるのであった。学制の施行は農民の意識を高めつつあり、農民と地方役人の確執も日を追って激しく、騒動も頻発した。人頭税下の宮古でも明治25年(1892)人頭税廃止の運動が起きた。

 新任の県知事奈良原繁は、運動の鎮静化を計り制度の改革に着手せんとしたが、士族層の抵抗にあってあえなく失敗した。それでも農民は屈せず、明治26年(1893)開設間もない国会へ直訴し「宮古島正租軽減理由書」を提出した。

この行動はマスコミにも取りあげられセンセーションをまきおこした。政府、県は強い衝撃を受け、漸く本格的な旧慣改革へと始動しはじめたのである。

 以上述べたような混沌たる沖縄の社会状況のなかで奈良原知事は厳然として立ち、日清・日露の2大戦争をくぐり抜けて沖縄近代化の基盤を築くために、教育優先の県治方針をかかげ不退転の努力をつづけた。

しかし、奈良原知事の県治政策には、専制的、独裁的な面があったようで、彼の業績のかがやかしい光の裏には暗いかげりがあったとも伝えられている。

その功罪を論ずることは本書の意図するものではないので、彼が教育振興のためにつくした功績の分野に限定して、その概要を述べることにした。



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

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